野中山円成院 |
花小金井駅北側一帯は拓大一高の移転に伴い平成18年に再開発が 完了して、狭い路地が入り組んでいた住宅地が近代的な駅前に一新しました。 円成院は同駅から北に400m。図書館や地域センター、マンション等の近代的な 街区を通り過ぎると緑の木々に囲まれたお堂が見えてきます。 春には八重の枝垂桜が見事に咲く 桜の名所でもあります。 |
黄檗宗の伝道に願いをこめて開墾された野中新田開発と円成院の歴史 | |
大道りに面した朱塗りの大きな円成院山門 |
この寺の開基矢沢大堅は新田開発をして新しい信仰を広めようという大悲願から、幕府の新田開発令を受けてこの地へ。 享保7年(1722)7月大堅は、円成院本堂先手観世音のおみくじと毘沙門天の夢のお告げを受けたと言う誓願状とともに上谷保村の百姓籐八らと幕府に新田開発を願い出て同9年(1724)5月、田無境から立川境に至る513町歩(約5.1ku)の開拓を許可された。 この年9月大堅和尚も上谷保村から引越しして、無人の荒野に最初の草庵を構え、移り来る農民のリーダーとなり、自らも開拓の鍬を振るった。 移り住む農民も増え開拓に見通しのついた享保12年(1727)、上谷保村にある円成院をこの地に引寺し、師僧実山道伝を勧請して開山を仰ぎ、野中山円成院と称した。 大堅当初の悲願であった開拓地全域の農民を自らの檀家とする理想は果たされなかったが、多数の農民から帰属を得て今日に。建物はその後数回改築され昭和27年の大改築、更に平成6年春全面的に修工された。 |
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=メモ= 『郷土こだいら』より 大堅とはどんな人 この寺の開基矢沢大堅は武州多摩郡上谷保村(現国立市)の出身で、宝永2年(1705)10月に 当時中国から渡来して間もない臨済宗の分派である新しい明朝文化の影響をもった黄檗宗に帰依して 円成院という寺を開いていた。 野中新田 1723年、願地の区分をするため代官と江戸町奉行の与力が検分に来て杭を打つことになった。 ところが願人の間に重大な問題が起きた。代官から新田開発の権利金と言うべき、 冥加金(みょうがきん)250両を上納できる者がいなかった。そこで当時鈴木新田の開発に 出資していた野中屋善左衛門に、新田の村名に善左衛門の苗字をつけ、土地も望み道り願人たち で割合って差し出すと言う条件で出資してもらうことになったという。 野中新田は非常に広大な面積を持つ分散した新田であったため 享保17年(1732)北野中 通野中 南野中の独立した3組に分割され 各組の名主には与右衛門、善左衛門、六左衛門が。 円成院は与組で、お寺の墓地から西側が善組で善左衛門が延命寺の開基に。 新田は昭和37年10月市制施行まで善座衛門組 与右衛門組、六左衛門組(現在国分寺市)に 分かれていた。 野中屋善左衛門とはどんな人 上総国防阿郡万国村(現千葉県木更津市)で幕府御用船の命を受けていた4人の回船業者の 一人で大富豪であった。 |
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所在地 小平市花小金井1−6−29
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