明治5 |
1872 |
6月岡山県の西江原村(現井原市)の田中家に生まれる。本名:倬(たく)太郎。 |
15 |
1882 |
平櫛家の養子に。平櫛田中の名前は両家の苗字から。 |
26 |
1893 |
大阪の人形師中谷省古に弟子入り、彫刻の手ほどきを受ける。 |
31 |
1898 |
前年上京。1月高村光雲を訪ね教えを請う。7月谷中長安寺に寄宿。西山禾山の臨済録の提唱を聞き、思想にも制作にも影響を受け仏教的なテーマを題材に制作を。 |
41 |
1908 |
日本彫刻会第1回展に出品した『活人箭』が岡倉天心の推奨を受ける。 |
大正3 |
1914 |
日本美術院再興記念展覧会に『禾山笑』など出品、同人に推挙される。 |
11 |
1922 |
横山大観、下村観山らの尽力で上野桜木町に住居を建てる。 |
15 |
1926 |
長女18で死去。続いて昭和2年には長男17歳で死去。どちらも結核であった。 |
昭和5 |
1930 |
日本美術院の経営に参加。第17回院展に岡倉天心の釣りを楽しむ姿を題材にした『五浦釣人』を出品。 |
11 |
1936 |
名舞台と誉の高かった六代目尾上菊五郎演じる『鏡獅子』の制作に取り掛かる。歌舞伎座に25日間通い詰めて観察するとともに、弟子たちには裸で稽古をつけると聞いた田中翁は、アトリエで菊五郎にポーズをとってもらい下帯一枚姿の裸形の試作も重ねた。 |
12 |
1937 |
帝国芸術院会員になる。 |
19 |
1944 |
東京美術学校(現東京芸大)教授に就任。 |
29 |
1954 |
文化功労者に選ばれる。 |
33 |
1958 |
資金難などで戦中戦後中断されていた『鏡獅子』を完成させた。制作開始から20年余の歳月をかけて完成した畢生の大作〈高さ約2メートル〉は国立劇場に展示されている。裸形と着衣の試作も何体も残され苦心の跡が。11月生地井原市名誉市民に。 |
37 |
1962 |
文化勲章受賞。授賞式で天皇陛下から「何に一番苦心されましたか」と訊ねられ、田中翁は「おまんまを食べることでした」と答えたという。彫刻で生計を立てることは容易でなかった。 |
40 |
1965 |
東京芸大名誉教授になる。 |
44 |
1969 |
12月小平市に新居完成。その土地は昭和10年頃、隠居所を建てるつもりで購入していた。 |
46 |
1971 |
満100歳のとき向こう30年間の制作に備えて巨大な彫刻用クスノキ原木を購入。世間をアッと言わせた。 |
47 |
1972 |
小平市制10周年記念に小平名誉市民に推挙される。 |
54 |
1979 |
12月30日肺炎で永眠。早世した二人の子供の分まで生きるというのが口癖で、「俺は一人で行く、誰もついて来るな」というのが最期の言葉だった。 |