平櫛田中の芸術
近代木彫最高峰『鏡獅子』
平櫛田中の不屈の107年

平櫛田中翁の芸術の特質は優れた写実力と深い精神性、それまで
タブーとされてきた木彫の彩色に挑んだことが上げられています。
田中芸術のすべてを結集し、20年の歳月をかけて完成した生涯の大作
『鏡獅子』への足取りと100歳を超してなお創作を続けた
田中翁の生涯を略年譜にしてみました。
明治5 1872 6月岡山県の西江原村(現井原市)の田中家に生まれる。本名:倬(たく)太郎。
15 1882 平櫛家の養子に。平櫛田中の名前は両家の苗字から。
26 1893 大阪の人形師中谷省古に弟子入り、彫刻の手ほどきを受ける。
31 1898 前年上京。1月高村光雲を訪ね教えを請う。7月谷中長安寺に寄宿。西山禾山の臨済録の提唱を聞き、思想にも制作にも影響を受け仏教的なテーマを題材に制作を。
41 1908 日本彫刻会第1回展に出品した『活人箭』が岡倉天心の推奨を受ける。
大正3 1914 日本美術院再興記念展覧会に『禾山笑』など出品、同人に推挙される。
11 1922 横山大観、下村観山らの尽力で上野桜木町に住居を建てる。
15 1926 長女18で死去。続いて昭和2年には長男17歳で死去。どちらも結核であった。
昭和5 1930 日本美術院の経営に参加。第17回院展に岡倉天心の釣りを楽しむ姿を題材にした『五浦釣人』を出品。
11 1936 名舞台と誉の高かった六代目尾上菊五郎演じる『鏡獅子』の制作に取り掛かる。歌舞伎座に25日間通い詰めて観察するとともに、弟子たちには裸で稽古をつけると聞いた田中翁は、アトリエで菊五郎にポーズをとってもらい下帯一枚姿の裸形の試作も重ねた。
12 1937 帝国芸術院会員になる。
19 1944 東京美術学校(現東京芸大)教授に就任。
29 1954 文化功労者に選ばれる。
33 1958 資金難などで戦中戦後中断されていた『鏡獅子』を完成させた。制作開始から20年余の歳月をかけて完成した畢生の大作〈高さ約2メートル〉は国立劇場に展示されている。裸形と着衣の試作も何体も残され苦心の跡が。11月生地井原市名誉市民に。
37 1962 文化勲章受賞。授賞式で天皇陛下から「何に一番苦心されましたか」と訊ねられ、田中翁は「おまんまを食べることでした」と答えたという。彫刻で生計を立てることは容易でなかった。
40 1965 東京芸大名誉教授になる。
44 1969 12月小平市に新居完成。その土地は昭和10年頃、隠居所を建てるつもりで購入していた。
46 1971 満100歳のとき向こう30年間の制作に備えて巨大な彫刻用クスノキ原木を購入。世間をアッと言わせた。
47 1972 小平市制10周年記念に小平名誉市民に推挙される。
54 1979 12月30日肺炎で永眠。早世した二人の子供の分まで生きるというのが口癖で、「俺は一人で行く、誰もついて来るな」というのが最期の言葉だった。

自分の理想像だとしていた『尋牛」。
苦難しながら牛を探して歩く中国
宗代の禅籍を題材にした作品。

星取り機と呼ばれる特殊コンパス。
粘土で造形し石膏で型取りした元像を
拡大して木彫に仕上げる時に使用。

  今後の企画展と行事
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 ◇平櫛田中の書簡U:5月10日まで
 ◇おひなさま展示:2月4日〜3月29日まで
 ◇25周年記念展:10月23日〜11月29日
 
 
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